その日、世界は喜びと祈りに満ち溢れる。
人々は暖かな光に包まれ、安らかなる至福のときを愛するものと過ごす。
祝福の鐘と賛美歌が鳴り響く『聖夜』と呼ばれるこの日を、闇に属するものたちはどう眺めているのだろうか。
そう。
……たとえば、魔族、とか。
「……居心地悪いなぁ、とか考えないワケ?」
「え?何がです?」
とある街、セイルーン王家の別邸のひとつである小さな館(と言っても、そんじょそこらの宿屋よりはかなり立派な造りをした邸宅)。
その一室で、暖かな暖炉の前に据えられたもみの木に小さな長靴型のオーナメントを取り付けながら、リナは反対側にいるであろう存在に問いかけた。
「はい?何がですか?」とのんびりした口調で返事を返しつつ、枝の脇から顔を覗かせたのは、神官服に身を包んだにこやかな青年。
善良そうに見えるその姿、だがその正体は紛れもなく『闇に属するもの』なのだ。
「つか、なんでそんなにウキウキと飾りつけとか楽しんじゃってんのよアンタは……」
そう、彼――ゼロスの正体は魔族。
しかも、獣王直属の神官である高位魔族と呼ばれ、恐れられる存在だ。
だが、多くの神族を屠ってきたであろうその手に握られているのは、天使を模したオーナメント。
ころんと愛らしいフォルムのそれを優しく飾り付けているというあまりにシュールな構図に、リナは困惑の表情を浮かべていた。
「いやぁ、なんだかやり始めたら意外とコレが楽しくて♪あ、ほらリナさんもオーナメント飾るの手伝ってくださいよ。サボったりしてたら、後でアメリアさんに怒られちゃいますよ?」
「あー……はいはい……」
白く長い青年の指が、もみの木の一枝にそれをそっと取り付ける。
ゆらゆら、と揺れる陶器製の天使は、暖炉の暖かな光を受けてほのかに色づいている。
飾り付けられた天使をちらりと見やり、高位魔族の手でツリーに優しく飾られる天使って……なんだかなぁ、と彼女は苦笑を浮かべていた。
「それにしても、立派なツリーですねぇ。オーナメントも、アンティークの陶器やクリスタル、純金、純銀で作られていますし、さすがはセイルーン王家と言ったところでしょうか」
「ほんとにね。……多分、このクリスタルの星ひとつで普通のツリーが50本買えちゃうわね」
そんな他愛もない話をしている内に、飾りつけも終盤に差し掛かってきた。二人はふわふわの綿を雪に見立てて枝に散らしていく。
「ってか……今更だけど、なーんでアンタが人間のお祭りに参加しに来たりしてんのよ?しかもあんたの大ッ嫌いな『聖なる』存在を讃えるお祭りなのよ、コレって。
そんな祭りに、こーして嬉しそうに参加してる高位魔族ってどうなのよ?闇に仕えるものとしての自覚が薄いんじゃないの、獣神官ゼロスさん?」
「あっはっは。ま、確かに僕は過去に死んだどっかの誰かさんとか言う『聖人』を讃える気持ちなんてこれっぽっちもありませんし、何かを祝福するつもりもありませんよ。
……ただ、僕は僕なりにこのイベントを楽しもうと思いまして♪」
どこか棘のあるリナの言葉をやんわりと受け流しながら、最後の仕上げにツリーの先端に大きな星を飾りつけたゼロスはにっこり笑ってそう言った。
“僕なりに”と言う言葉に、彼女は眉をひそめる。
「……どういうことよ?」
その問いかけに答えを返すことなく、ゼロスは滅多に見せることのない紫紺の瞳をうっすらと開いてリナを見つめていた。
「…………な、何、」
言葉もなく、ただじっと見つめられる。
彼の意図の読めない視線に絡め取られまいと、リナはふいっと視線を外した。
が、そっと頬に手が添えられて、また瞳を合わされてしまう。
今度は抗えなかった。
「……知りたいですか?」
至近距離で見つめられたまま妖しく微笑まれ、リナは思わず身を硬くした。
逃げようと思ったときには時すでに遅く、彼は彼女の柔らかな身体をその腕に捕らえていた。
「聖なる気が満ち満ちたこの日に、僕が此処に来た理由……」
すす、と背中を撫でるゼロスの指先に、彼女が震えたのはその冷たさのせいだけではない。
彼の声音は、明らかに狂気を帯びたものに変わりつつあった。
「祝福と喜びが街に満ち、讃歌が高らかに歌われる……この不愉快極まりない夜に、僕が何を楽しもうとしているのかを……知りたいですか?」
「……っや、」
耳朶に触れるか触れないかの位置で彼にそう囁かれ、リナは思わず身をすくめる。
少しでも動けば、あの冷たい唇が自分に触れるだろう。……この頬の熱さを知られたくない。
でも、ゼロスの腕は身を捩ることすら許さない。
そんな彼女の反応を楽しむかのように、くくっ、と小さな笑い声が聞こえた瞬間、部屋に闇が満ちた。
「―――っ?!」
音も立てずに消えた暖炉。
あちらこちらに灯されていた、たくさんのキャンドルも残らず消えていた。
暖かな光を失った室内を満たすのは、凍てついた月光。
見上げた先に哂う闇――ゼロスの禍々しくも美しいその微笑みに、ぞくり、と心が震えた。
「その“愉しみ”が、誰もが安らかなる感情で過ごすこの日を壊すことだ、と言ったら……どうします?
喜びに満ちた、誰もが災厄など降りかかることはないと信じ、油断しきっているこの聖夜を滅茶苦茶に壊してしまうために此処に来たのだとしたら、」
「な……!」
唐突に告げられた殺戮の宣告に、彼女は声を失う。
美しき闇は、冷徹な微笑を目元に浮かべてそんな彼女を見下ろしている。
そして、歌うように、その情景を思い浮かべるかのようにうっとりと凄惨なその“愉しみ”について言葉を続けていく。
「例えば、今から……そうですねぇ、この街で一番大きなあの大聖堂。
あれを美しい紅蓮の炎で焼き尽くしてしまうと言うのはどうです?
このイベントにはとてもおあつらえ向きだと思いませんか?『赤』は、このイベントのテーマカラーのひとつですしねぇ。
もしくは、あの場に集まった全ての人々を、串刺しにして聖堂を真っ赤に染め上げる……と言うのもなかなか素敵な案だと思いませんか?綺麗ですよ、きっと」
あの場にいる全員が、聖なる使者のように赤い衣を纏うんです。
とっても楽しそうじゃありませんか、とゼロスは禍々しい微笑を浮かべる。
「ゼロス……あんた、そんなことをしようと思って此処に来たって言うの?それとも、その『お楽しみ』は、獣王の差し金だったりするわけ?」
己が抱きすくめているが故に表情のうかがい知れないリナの問いかけに、ゼロスはからかい交じりに「さぁ?どうでしょうねぇ」とだけ返してくすくすと笑った。
「どうです?どちらがいいですか?リナさんに選ばせて差し上げますよ……」
「……っ、」
この話が冗談なのか本気なのかを量りかねていたリナは、唐突に突きつけられた選択に言葉を失った。
かっと頭に血が上り、「ふざけるな」と怒鳴りつけようとしたその瞬間――――彼女は唇を奪われていた。
「んむう~~~~~~っ?!」
一瞬何が起こったのかわからなかった。が、即座に状況を理解したリナは執拗な口づけから逃れようとじたばたともがいたが、
当然そんな程度の抵抗がゼロスに効くはずもなく、結局彼女は酸欠でぐったりするまで唇を離してはもらえなかった。
そして、ようやく離したリナと己の唇に伝った銀の橋をもう一度軽く口づけることで払ったゼロスは、優しい声でと囁いた。
「……冗談ですよ、」
息を整えることで精一杯のリナは、ただぼんやりと彼を見上げることしかできなかった。
自分を見下ろすその瞳は、先ほどとは別人のように優しく穏やかなものだった。
「僕が此処に来たのは、貴女に逢いたかったから。
この日を、貴女と一緒に過ごしたかったから。……それだけです。
今日は、『人』にとって過去の聖人を讃え、祝福する日――そして、“愛するものと過ごす特別な日”だと聞きました。……だから、」
どうしてもリナさんに逢いたくて、とさらりと告白するゼロス。
あまりにもストレートすぎるその言葉に、リナの頬はまるで林檎のように赤く染まっていた。
恥ずかしさと嬉しさと怒りがないまぜになって体中をめぐり、うまく頭が回らない。
「な、な、何キザったらしいこと言ってんのよアンタはっ!
そんなもん、魔族のアンタには何の意味も持たない、人間のいち風習でしょーが!!
大体アンタは何かってーと人間のイベントごとに参加しすぎじゃないの?
異国の行事とかにもやたら詳しかったりするし……一体全体何がしたいのよ。
知ってるだろうけど、人のやる行事なんてほぼ神属に関係するものばっかりなんだから、アンタたち魔族はわざわざ参加したくもないもののはずでしょうが!!!!」
そう、無意味だ。
けれど、無意味ではない、と彼は思う。
今、自分に流れ込んでくる彼女の感情が、この行動は無意味ではないのだと言うことを何よりも雄弁に物語っている。
「魔族である僕にとっては何の意味も持たない行事でも、貴女にとっては意味があること――かも、しれないでしょう?」
――自分には理解できないものが、取るに足らない物事が、“人(あなた)”にとって大切なものであるのならば。
「貴女が喜んでくれるなら――、」
――その大切な時間に、ほんの少しだけでも、傍に居たくて。
「貴女が微笑ってくれるなら――、」
――それだけで、僕は満たされるのだから。
「僕にとって無意味で、ある意味不愉快ですらある『人』の祭事や行事――その日にこうして現れ、寄り添うことで少しでも貴女が満たされるのなら――、」
――貴女の短すぎるその時間に、少しだけでも“僕”を刻むことができるのなら。
「僕は喜んでこの聖なる夜に身を蝕まれましょう。それがどんな苦痛を伴うものであろうとも、ね」
真っ直ぐに。ただ、ひたすら純粋なまでに紡がれる自分への想い。
嘘、だとは思わない。魔族は嘘をつくことができない存在だから。
人である自分は嘘をつく。想いを素直に伝えることに臆病で、言葉になるのは伝えたい気持ちからは程遠いものばかり。
だから、こんなとき、どうしていいのか分からない。今、自分からは正の感情が溢れているだろう。
魔族にとって、それは不快でしかないもののはずなのに、ゼロスはそれを受け入れることを選んだ。ならば、自分もゼロスの想いに応えたいと思う。
ぬくもりのない腕の中から、そっとゼロスの顔を見上げてリナは唇を開いた。
何度かためらったその後に、不器用な彼女が口にできたのは、たった一言。
「……ありがと、」
リナは小さくそう呟いて、真っ赤になった顔をゼロスの顔に埋め、ぎゅっと背中に回した腕に力を込めた。
心音の聞こえない、仮初の身体が愛しかった。
本当にアンタって馬鹿なんだから、と囁いた口元には、確かな微笑が浮かんでいた。
「ね。……今、辛い?痛い?苦しい?」
「ええ、とても。……とても苦しいです……でも、」
――とても暖かいです。
窓から差し込む月光の下、寄り添う二つの影が一つに重なる。
静かな夜は、誰にも等しくやってくる。
End.